凸凹(でこぼこ)な毎日。

あせくせ働く。

「希望」を抱いて死ぬ―恋愛における「片思い」の極端な結末―

自分のアカウントのkujira88のツイートでつぶやいた内容について、もう少し詳しく考えてみたいと思いました。

「希望」をもって死ぬこともあるのか

自殺の文学史

自殺の文学史

 

 『自殺の文学史』「日本の読者へ」のなかで、作者が日本に留学した際、通っていた大学で飛び降り自殺が起きます。自殺した女性は失恋が原因だったそうですが、遺書の中で生まれ変わったら必ず意中の人と相思相愛になれると信じて希望と期待を胸に自殺をしたとあったのです。

もう少し『自殺の文学史』を読んでみましょう。

恋愛は、ひとが自殺する理由の中でもっとも些細であると同時に、もっとも私的なものである。

確かに、恋愛、特に失恋についてはかなり苦しく、死にたいと思うことも決して不思議ではないですね。もうひとつ引用してみましょう。

恋愛の二つの変種ー絶対的に不幸な片思いの恋と、相思相愛のあまり恋人同士の融合が生を越え死の領域に及ぶほどの、分かち合われ、絶対的に幸福な恋愛と―は、ともに自殺への可能性を含んでいる。

ここでは絶対的な不幸である「片思い」から自殺するケースと、絶対的な幸福である恋愛から自殺するケースと二つあることがわかります。そこで、ここでは想像しやすい「片思い」について考えていきたいと思います。

「片思い」で至る自殺までの2つの経緯

「片思い」は絶対に成就しないという意味で、欲望が満たされない不幸に満ちています。この不幸を呪って死ぬことも十分な理由ですが「片思い」のケースにはこれだけではないというのが冒頭で紹介した18歳の女性が証明しているように思います。

なので「片思い」から自殺に至る経緯には2つあるだろうと思います。

  • 今に絶望して死ぬ
  • 今に絶望して、来世を信じて死ぬ

報われない「純情極まる恋愛」が絶望を生む

ただここまで絶望するにはよほどのことがなければいけないでしょう。私が思うに、それは作家の直木三十五が述べている「思春期的恋愛」ではないかと思います。

例えばゲエテの「エルテルの悩み」なぞはこれに属する恋愛であろう。現実の場合あのように純粋に長くは続かないだろうが、少くとも普通には二十歳位までの、盲目な、熱烈な、それでいて性欲的よりも感情的な、純情極まる恋愛である。ツルゲネフの「初恋」なぞもそうである。既に異性を知って了った男女には、もうこんな感情は再び見られないものである。(直木三十五 大衆文芸作法

直木は「既に異性を知って了った男女には、もうこんな感情は再び見られない」といっていますが、これは単に年齢に限ったものではないように思います。

『自殺の文学史』のなかで紹介されているイタリアの詩人、チェーザレ・パヴェーゼは人生で最も幸せなときに失恋をして自殺をしました。40歳を過ぎ、才能も認められた詩人であっても、失恋は死への十分すぎる理由であって「純情極まる恋愛」は複数の恋愛や肉体的関係を経たのちでも持ち得るような性質のものではないかと思うのです。

とはいえ、ここで重要なことは「盲目的な、熱烈な、それでいて性欲的よりも感情的な、純情極まる恋愛」であるということです。これは時間をすべて相手に渡してしまうような見返りを求めないような性質のもので、自分を全て捧げる分、それが報われない場合、すべての自分を否定してしまうような結果を招きます。

ショーペンハウエルは、

深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にする、―我々は肉体的苦悩を軽蔑するのである。否、もしかして肉体的苦悩が優位をしめるようなことでもあるとしたら、それこそは我々にとっては一種心地好い気保養なのであり、精神的苦悩の一種の休止である。ほかならぬこういう事情が自殺を容易なものにしている。(『自殺について』)

と述べており、こういうものが「絶望」ではないかと思います。

通常であれば人間関係が更新される度に次第に相手を忘れ、次の相手を見つけるわけですが、そう至らないところに「絶望」があります。次の相手はいないわけで、完全に自分を喪失し、その補充ができない場合、死へ至るのだろうと思います。これが、

  • 今に絶望して死ぬ

です。しかしそれだけが死の理由ではない場合もあるようです。

来世を信じて死ぬ

現世に「苦」を感じ、来世を信じる話はよくあります。

小林秀雄の『無常という事』のなかで『一言芳談抄』を引用しています。

なま女房が、

生死無常の有様を思うに、此世のことはとてもかくも候。なう後世を助け給へと申すなり(『モオツァルト・無常という事』)

吉本隆明はこの『一言芳談抄』について

要するに「この世より浄土のほうがいい。だから死のう」という思想を述べている。*1(『日本近代文学の名作』)

と言っています。これは宗教的な話ではありますが、この世で生きることが「苦」であるから浄土へ向かうという考えは昔からあり日本的ではあります。当然「片思い」は「苦」です。この「苦」から解放されることを望むわけですが「片思い」においては意中の人と一緒になることが浄土でありましょう。

だから来世において一緒になることを望むわけです。ここには「絶望」とは違う積極的な「希望」を見出すことができるのではないでしょうか。少なくとも「死」はヴィトゲンシュタインが、

死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない(『論理哲学論考』)

と言っているように誰にも直接的に経験できるようなものではありませんから、そのわからない領域に積極的な意味をもたせることが可能になります。だから自殺しようとする本人にとっては確信的な行為であるし、また誰にもそれを否定することもできません。

カントが『実践理性批判』において、「幸福」を

各自が自分の幸福をどこに求めるかということに、その都度めいめいの心に喚起される快・不快の感情次第で決まるのである。

また、

主観的には必然的な法則(自然法則としての)も、客観的には極めて偶然的な実践的原理であり、この原理は、主観に異なるにつれて、それぞれははなはだ異なることがあり得るし、また異らざるを得ない

と述べているように、「幸福」は人それぞれによってかわるだけでなく、本人には確信的です。ここでは「絶望」の回復を来世に求めることによって「幸福」の可能性を見出してしまいます。*2

「絶望」に際して「死」が結末であるのに対し「希望」に際して「死」は手段であって通過点にすぎません。ここに「片思い」が自殺に至る、

  • 今に絶望して、来世を信じて死ぬ

があるように思います。

*1:ただ吉本は小林のこの引用を一番つまらない短章を取り上げて、文芸的な解釈を示しただけだ、と言っている。

*2:ただし、カントは自殺を否定している。